001 元カレの奥さまと 12月初旬 陽射しの暖かい午後に 15年の壮絶な不倫にケジメを着けるべく、不倫相手であった元カレの奥さまと『当事者の一人である元カレを除外』して2人でお逢いして来た 謝罪に対しては『夫にも言った言葉ですが一生許すことは出来ません』 元々許されたくての謝罪では無く、もっとコテンパンに罵ってもらったほうが寧ろ罪悪感も薄れると言うものです しかしやってしまった過去は消せない 私たち2人はこれから月に一度はお逢いして色々お話ししましょうね、となった 奥さまには監視の意味もあったようだ 『御主人にもう私の方からは一切連絡いたしません、とお伝えください』 とだけお願いした 匿名さん2025/01/22 17:49
002 長きに渡りどんな些細な事でも話してきて、私を世界一理解してると自負していた彼との決別は些か寂しいものではあったが、奥さまと新たな御縁が生まれたのは私にとってもようやくキチンとした区切りが着いたとの安堵の気持ちのほうが遥かに大きかった 彼ともう逢うことは叶わないかもしれないが、奥さまと繋がることで完全に縁が切れた訳では無いという安心感をも得られることが出来た 変人好き同士気も合うかもしれない 当人が変人と言う点では些か私の方が勝ってるかもしれないが これから私たち2人の関係がどうなっていくのか それはまだ私たちにとっても未知の世界 こんなちょっと変わった2人の関係性を現在進行形で綴っていきたいと思う 匿名さん2025/01/22 17:52
003 その後ちょくちょくお互いメールでやり取りし、御主人には話したのか聞いてみた 『一人で勝手に会いに行ったのは夫にこっぴどく叱られました』 との返答に私は固まってしまった 『叱られる』とは一般的に多少なりとも上下関係が介在すると言うことだと理解している私には全く考えも及ばない言葉だったからだ 私には上下関係と言う概念が無い 学生時代からセンパイにペコリともしない私はしょっちゅう呼び出しをくらっていた 尊敬できるような人物だったらキチンと敬意を払う しかし、たかだか数年先に生まれただけの人間に下げる頭は私には存在しない 私が奥さまの立場だったら 『一人で勝手に会いにいったことに逆ギレしてました』 であろう ついでにその先にお前が悪いんだろーが!って言葉が金魚のフンのように引っ付くことも間違いない なんとなく色んな想像をしたものの勿論口には出さない 奥さまから夫のことは話さないで欲しい類のお申し出があったので『分かりました。御主人のことは話題にしないしこれ以上の詮索はしません』 と、これが取り決めになった 匿名さん2025/01/22 17:55
004 年内にもう一度お会いして他愛もない雑談に花を咲かせ お互いにトッピングに散々迷った末のパンケーキをペロッとたいらげた直後 2人がお互いに其々の視点から私たちの関係を綴っていったらどうだろう?と奥さまからご提案をいただいた 私は迷った 臭いものに蓋をして気を遣いながら、読者まで意識して?そんなこと私に出来るわけ無いと一旦は思った でも散々悩んだ挙句、それでも私らしいモノを書くことは出来ると言うことに気付いて今に至り、ここまでを一気に書いたところだ インフルエンザで寝込んだお正月に熱に魘された勢いで書いたものの、うん、いいじゃん ウイルス野郎グッジョブッ! 匿名さん2025/01/22 17:58
005 私は幼稚園の時からその元カレと別れるまで彼氏が途切れたことが無かった 一度付き合うとみんな10年単位なのでそうなってしまっただけである 自慢と捉える人もいるだろうが私の言いたいのはそこじゃない 初めてとも言える彼氏のいない生活が自由で楽しくて楽しくて仕方ないのだ しかし自由とは楽しくて超過酷なものである 自らを厳しく律しなければならない 匿名さん2025/01/22 17:59
006 私は真の自由になるべく切磋琢磨するのみ 「自由には責任が伴う」という言葉は、精神分析学の創始者であるジークムント・フロイトの名言として知られています。フロイトは「ほとんどの人間は自由を欲しがっていない。なぜなら自由には責任が伴うからである。ほとんどの人間は責任を負うことを恐れている」と述べています。 では真の自由とは何か それは完全なる自立である 仏教で言う自灯明法灯明だ 匿名さん2025/01/22 18:00
007 仏教では、自分自身を拠り所として生きることを説く教えがあり、その教えは「自灯明(じとうみょう)」や「法灯明(ほうとうみょう)」という言葉で表現されます。 「自灯明」とは、自分自身を鍛え、自らの力で悩みや迷いを乗り越え、たくましく生きる知恵を学ぶことを意味します。また、「法灯明」とは、なんの指針もなく急に「一人で生きていきなさい」と大海原に放り込まれても、人間は生きていけないというときに必要になる教えです。 釈尊は入滅を前にした説法で、弟子たちに「この世で自らを島(灯明)とし、自らを拠り所として、他人をたよりとせず、法を島(灯明)とし、法を拠り所として、他を拠り所としてはならない」と諭しました。 仏教では、自分自身の中にこそ本当の拠り所があるという教えがあり、この教えは『法句経』にある「おのれこそ おのれのよるべ おのれを措(お)きて 誰によるべぞ よくととのえし おのれにこそ まことえがたき よるべをぞ獲(え)ん」というお言葉に示されています。 匿名さん2025/01/22 18:01
008 ちなみに『法』とは『真理』のことである 仏教関連を色んな人が書いてるけど 私は中村元監修しか読まない そもそもが般若心経の『舎利子舍利子』とは『弟子』のことだ 入滅前 弟子たちよもうお前たちにも解るだろう 今まで自分はあんなことこんなこと言ってきたが真実は実はこう言うことなんだ と説いたのが般若心経だ 弟子でも無い人たちが勝手な解釈で(解釈は勝手だが)本まで出しちゃう 図々しさ フェイクばかりのメディアとなんも変わらんがね(最近ハマっている河村たかしが移ってきた😅) ブッダこそ真のリアリストだがね😆 ※ときどき取り乱しますがお許しください 匿名さん2025/01/22 18:02